おかげさまで福井貨物自動車は創立60年を越えることができました。
これもひとえに、お客さま、従業員とそのご家族、多くの方々の支えがあってのことと心から感謝申し上げます。
ここに福井貨物自動車の歴史を、エピソードを交えながらご披露いたします。
第一次世界大戦の戦後恐慌下にあった昭和3年、創業藤尾定尾が1928年式シボレー号一屯車一両を購入、福井市三の丸町で運送店を開いたのが、弊社のはじまりです。鉄道輸送により、大量の物資が行き交う時代にありながら、駅に到着した貨物は荷車や荷牛馬車で運ばれていた当時において、近代的なトラック輸送の迅速性、利便性は大きな偉力を発揮しました。その後、戦中戦後の激動期を経て1950年(昭和25年)、現在の福井貨物自動車株式会社が設立されました。
昭和20年代中頃の8号線
「その当時の道路はそれはそれは貧弱なものでした...。敦賀峠などでは車のわだちの跡が鉄道線路のように走り、その間には草が繁っていて車の腹をこすって走るため、峠を越した頃には自然にデフや車の腹をきれいに磨いてくれたものです。
一方は険しく聳え立った山岳、一方は切り落ちた崖、海といった山の中腹に500以上ものカーブを縫って走る狭い道路、このような所での対向車とのすれちがいには本当に時間と神経を使います。
また、長雨で大きな水溜りができたり、地盤の緩みを警戒したり、雪氷期はまさに生き地獄のようなもの。崖下に転落して、引き上げのため社員に総動員をかけたことも、一度や二度ではありませんでした。...」
(藤尾繁郎第二代社長回顧録から)
戦後のわが国においては、急激な高度経済成長に伴い増大した輸送需要に応え、良質の輸送サービスを安定的に提供するために、需給調整規制により事業者の数を制限し、政府の保護のもと、良質な事業者を育成することが、永らく国の重要課題でありました。この中で、事業者は、なかば「ぬるまゆ」に温存されてまいりました。
荒々しい日本海沿岸
「転落事故といえば、あれは年末の慌ただしいある寒い日のことでした。染色加工した色とりどりの織物を、整反整理して木箱詰めにし、10トントラックに満載して、福井の梱包会社から輸出品として神戸港の倉庫に運ぶ途中、敦賀の手前、杉津地籍の海岸道路を走行中、運転を誤って約三〇メートル下の海岸に転落する事故がありました。知らせを受けて直ちに駆けつけた時は、あの大きな一〇トン車が海岸の波打ち際の岩場に仰向けに横転、見るも無残な姿でありました。積荷は海中に投げ出され、破裂した木箱からは、織物が散乱し、ほぐれて荒れ狂う波間に漂い、浮いては沈み、沈んでは浮いたりして、沖へ沖へと流されている様を目にした時は、一瞬頭から血の気が失せる思いでした。
そしてよく見ると、運転手二人(和田と永坂)が、海中に入り、飛び散って流れ漂う織物を、一反一反引き寄せ、手繰り寄せ、岩場にかき集めているではありませんか。たとえそれが取り返しのつかない過失であったにせよ、彼等二人の責任感の強さには、思わず頭の下がる思いがしました。...」
(藤尾繁郎第二代社長回顧録から)
やがて昭和60年代にはいり、経済構造が変化してくると、輸送需要も高度化、多様化し、国の施策にも変化が求められるようになります。とりわけ、輸送の中核をなす貨物自動車運送事業については、これらの社会的な要求に弾力的に対応し得るようにするため、参入規制、運賃及び料金規制などについて自由度を高め、事業者がその創意工夫を生かした事業活動を行えるようにすることが求められました。その一方で過労運転、過積載などの輸送の安全を阻害する行為が慢性的に行われてきたことに鑑み、これらの違法、不当行為の是正などをはかるための社会的規制を充実、強化することにより、輸送の安全確立や輸送秩序の確保が一層求められることとなります。
こうした背景にあって、1990年(平成2年)12月「貨物自動車運送事業法」が施行されました。事業の参入が免許制から許可制に、運賃・料金が認可制から届出制になるなど、経済的規制が緩和される一方、過労運転や過積載を禁止する法律の規定など、社会的規制が充実・強化されました。さらには、2003年(平成15年)4月に改正物流二法(「貨物自動車運送事業法」「貨物運送取扱事業法」)が施行され、現在に至ります。
設立以来、社員一同が毎日斉唱している「今日の誓い」です。創業者藤尾定尾の手によるものです。(1950年〜)